地球の丸く見える丘展望台の歴史
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目 次
 
 はじめに 
 
 1.『海上郡誌』(大正6年5月発行)、『銚子市史』(昭和31年6月刊)の愛宕山展望台
  1−1 江戸時代、明治時代の愛宕山〜犬吠との関わり
  1−2 『海上郡誌』(大正6年5月発行)の愛宕山
  1−3 『銚子市史』(昭和31年6月刊)の愛宕山
  1−4 観光推進と愛宕山
 
 2.文豪田山花袋の愛宕山紹介
  2−1 『山水小記』 (大正6年12月10日発行)の愛宕山 
  2−2 『山へ海へ』 (大正6年9月8日発行)の愛宕山 
  2−3 『一日の行楽』(大正7年2月16日発行)の愛宕山 国木田独歩との関わり 
  2−4 3つの小説 『』、『写真』、『灯台への道』
 
 3.最初の展望台は?
  3−1 最初の展望台がいつ頃できたか、明確ではない。
  3−2 日露戦争と愛宕山
  3−3 遅くても大正時代には展望台があったか。
 
 4. 犬吠埼灯台との連携・一体化の模索
  4−1 昭和12年の新聞記事
  4−2 市制施行と高神村合併
 
 5.最初のコンクリート製展望台
  5−1 昭和16年の新聞記事 
  5−2 これが戦後まで続く展望台となった 
 
 6.太平洋戦争下の愛宕山
 
 7.昭和30年代、様々な観光施策が展開
  7−1 30年4月、磯めぐり定期観光バスの運行開始
  7−2 30年の7月15日から17日まで「犬吠灯台犬吠埼燈台80周年記念祭」挙行
  7−3 30年7月、愛宕山の観光道路市道愛宕山天王台線が開通
 
 8.地球の丸く見える「地球展望台」と命名
  8−1 命名の経過
  8−2 地元銚子市民の関わり
  8−3 「ほったらかし展望台」との批判も
 
 9.「日比友愛の碑」の建設 
  9−1 建設の経過
  9−2 展望台との位置の関係
 
10.犬吠スカイタワーの建設
  10−1 『展望台』の隣に建設
  10−2 管理運営体制は?
 
11.銚子有料道路の完成
 
12.犬吠オーシャンランドの開園
  12−1 建設の経過
  12−2 犬吠オーシャンランドの概要
  12−3 犬吠スカイタワーの買収
 
13.犬吠スカイタワーの終焉
  13−1 
  13−2
 
14.地球の丸く見える丘展望館の建設
  14−1
  14−2
  14−3
 
   関係年表


 はじめに
展望・観光資源としての愛宕山
 江戸時代の観光は銚子磯めぐり、愛宕山の位置づけは明確ではないが、観光対象ではなかったと考
えられる。
 犬吠埼灯台は明治7年11月15日初点灯。銚子観光の目玉になった。まだ「銚子市」ではなく、高神村
の時代だが、銚子町、元銚子町と一体となった観光開発が進められていた。
 明治41年発行の『犬吠土産 燈台物語』は犬吠埼灯台の参観者について、「毎日の縦覧申込者は申
込者は20人を下らない。風雨の日でさえ一人もいないということはない。夏にはどんな悪天候でも80人
を下ることはなく、春秋の季節には一日に八百名を越えることがある。」と記しています。
 『日本燈台史』は、明治41年度の灯台参観者が最も多かったのは犬吠埼灯台で参観者数は8,545
人と記録している。
 大正2年には銚子遊覧鉄道株式会社が設立され、銚子駅から犬吠駅間の運行が開始されていること
から、犬吠観光が大きな
   それでは、観光振興の中での愛宕山の位置づけはどのようなものだったのであろうか。

 2.文豪田山花袋の愛宕山紹介
  2−1 『山水小記』 (大正6年12月10日発行)の愛宕山
 『山水小記』は
 
  2−2 『山へ海へ』 (大正6年9月8日発行)の愛宕山 
 
 
  2−3 『一日の行楽』(大正年月日発行)の愛宕山 国木田独歩との関わり 
 
 
  2−4 3つの小説 『』、『写真』、『灯台への道』
 
 



 1.『海上郡誌』(大正6年5月発行)、『銚子市史』(昭和31年6月刊)の愛宕山展望台
  1−1 江戸時代、明治時代の愛宕山〜犬吠との関わり
 
  1−2 『海上郡誌』(大正6年5月発行)の愛宕山
 
  1−3.『銚子市史』(昭和31年6月刊)の愛宕山展望台の記述
 地球展望台 − 下総最高という73米余の愛宕山頂上に建設された展望台であるが、そもそもの発端
は日露戦争の日本海々戦に先だってバルチック艦隊発見のため建てた海軍の望楼にはじまるという。
これが後に市の管理となってから、現在のような鉄筋コンクリート造二階建の白堊の偉容に改められた。
太平洋戦争中は軍の看視哨に使われていたが、今は遊覧施設として観光客の利用に任せている。
頂に登っての大観は、銚子半島の全貌から常総沃野を一望に収め、しかも三面をめぐらす太平洋の水
平線の遠望はまことに地球の一部を望見するの趣がある。即ち、一般の見晴台と選を異にする所以が
ここにある。
 ※前年の昭和30年7月12日に、千葉管理局長堀口大八氏により地球展望台と命名。
 ※『銚子市史』の口絵には「地球展望台(愛宕山)」の写真がある。

 2.文豪田山花袋の愛宕山紹介
  2−1 『山水小記』 (大正6年12月10日発行)の愛宕山
 『山水小記』は
 
  2−2 『山へ海へ』 (大正6年9月8日発行)の愛宕山 
 
 
  2−3 『一日の行楽』(大正年月日発行)の愛宕山 国木田独歩との関わり 
 
 
  2−4 3つの小説 『』、『写真』、『灯台への道』
 
 

 3.最初の展望台は?
  3−1 最初の展望台がいつ頃できたか、明確ではない。
       日露戦争と愛宕山
  3−2 遅くても大正時代には展望台があったか。
 第5章で触れる昭和16年の新聞記事に「改築中」「従来の木造とは違って」との言葉があるので、それ
までも木造の展望台があったことがうかがえる。しかし、写真等は発見できていない。
 
  3−3 『極東之美 銚子』
 大正15年4月20日、本銚子町の文港堂から『極東之美 銚子』が発行された。本文23ページで、利根
川から川口、犬吠、犬若浦までの景観や名所をまとめている。市制施行前なのだが、犬吠岬のある高
神村までも含んで「銚子」として記述されている。「銚子犬吠岬灯台」との記述もある。
 『極東之美 銚子』の最後は「愛宕丘」で終わっている。
 「今迄の部分的の景観を一つのバーヅビューとして見るに最も適した所がこの愛宕丘である。後方は
見渡す限り茫々たる関東大平野、東と南とは千古不変の大海原、青松白砂の君が浜の一角に真白の
燈台が巍然(ぎぜん)としてその勇姿を現している。遥か水平線のほとりを商船が黒煙を吐き乍ら段々と
姿を没して行く。近くには発動汽船の響が勇ましい。此方には遠く蜿蜒(えんえん)たる利根の大河が銀
色に光っている。(後略)」
 銚子の景観を見る最後は、愛宕山から全体を見渡す素晴らしさを記しており、田山花袋と同様な見方
がされている。しかし、当時展望台があったのかは明確ではない。

 4. 市制施行、犬吠埼灯台との連携・一体化の模索
  4−1 市制施行と高神村合併
 昭和8年2月11日、銚子町、本銚子町、西銚子町の3町が合併し、銚子市が誕生した。
  4−2 昭和12年の新聞記事
 昭和12年4月18日付け東京日日新聞千葉版の記事「観光銚子の躍進」です。
 「独立した銚子市観光課の事業方針は新設以来山口課長並に課員は観光協会その他各方面と協議
の上漸く左の如く計画を決定し取り敢えず夏季施設から着手することになったがこの計画により観光
銚子∞海の県立公園≠大々的に内外に宣伝して観光客の吸収に大馬力をかけることになった。
△観光施設(一)市及び観光協会で県立公園の施設計画を樹立し、

 5.最初のコンクリート製展望台
  5−1 昭和16年の新聞記事
 昭和16年1月19日付け東京日日新聞千葉版に「新装の展望台」の記事が載っている。
「下総随一の高山銚子市愛宕山に改築中の展望台はこのほど完成したので24日落成式を挙げる、従
来の木造と違って近代式鉄筋螺旋階段の瀟洒な白亜の塔で銚子半島を一望の内に収め関東平野を遠
望、鹿島灘、九十九里浜等の眺望を恣に出来る名所の一つ、銚子市御自慢のもの
【写真は出来上った展望台】」  
 愛宕山の最初のコンクリート製展望台の建設を、昭和12年としている資料もあるようだが、この記事
から昭和16年1月24日落成としてよいであろう。
 また、平成16年までは木造の展望台があったこともわかる。
 戦後の絵はがきと見比べてみると、屋上に小屋らしき物が見えること、1階、2階部分の窓にもきちん
と窓が取り付けられている。建築当時の建物の内部がどうなっていたか知りたいところだが、今のところ
資料は見つかっていない。
  5−2 この展望台が戦後まで続く展望台となった 
 この新聞の写真を見ると、この展望台が戦後、地球の丸く見える丘展望台の建設まで残っていた「地
球展望台」であることがわかる。昭和30年には新たに塗装が施され、戦後の観光にも大いに役立つこと
になった。

 6.太平洋戦争下の愛宕山
 
 
 
 
 

 7.昭和30年代、様々な観光施策が展開
  7−1 30年4月、磯めぐり定期観光バスの運行開始
   ・4月7日 銚子磯めぐり定期観光バス認可、運行期間を4月1日〜11月30日とする
          (第1コース)銚子駅〜ヒゲタ醤油〜磯めぐり〜銚子駅
          (第2コース)銚子駅〜ヤマサ醤油〜磯めぐり〜銚子駅
           昭和30年4月実績:1,269人(1日平均42.3人)
   ・9月28日 銚子磯めぐり定期観光バス、日本国有鉄道との連絡運輸認可
   ・当時の会社名は成田バス株式会社(昭和21年11月26日 成田バス株式会社に商号変更)
   ・昭和31年11月13日 千葉交通株式会社に商号変更
 (千葉交通株式会社『100年の歩み 北総地域とともに一世紀』)
   ※千葉交通関係のパンフレットのページを作りました。詳細はこちらで。 
 千葉交通関係パンフレッ
 
  7−2 30年の7月15日から17日まで「犬吠灯台犬吠埼燈台80周年記念祭」挙行
 
  7−3 30年7月、愛宕山の観光道路市道愛宕山天王台線が開通
 
 

 8.地球の丸く見える「地球展望台」と命名
  8−1 命名の経過
 最初に『観光・産業の銚子』(昭和32年7月1日発行 銚子市観光課等編)を見てみよう。
  「愛宕山は海抜僅か74米の丘にすぎないが日本の東端に立ち、太平洋と大利根に囲まれたその展
 望はすばらしい。しかも快晴の日この丘に立てば「地球のまるい」ことを肉眼でみることができるのであ
 る。しばらくここに足をとどめて雄大な展望を賞味し、静かに地球の歴史を回想するも興味深いことであ
る。」
 同パンフレットの写真
標識が写っており、これには『地球展望台(地球のまるく見える丘)』となっている。この標識は現在どう
どうなっているのか、展望館事務室に確認してみたが、残っていないようである。
 この時初めて「地球のまるく見える丘」との命名もなされたのか。新聞記事による堀口の言葉からは同
様の言い方はそれまでもされていたように感じる。地元人の気づかない魅力を堀口が改めて表に出した
と言うことなのか。銚子市民はどうとらえていたのか。
いずれにしても、ここから愛宕山の高台を「地球のまるく見える丘」、そこに立つ展望台を「地球展望台」
と呼ぶことが確立された。
 ・この頃発行されたと思われる千葉交通の観光案内では当然のように二つの名称が使われている。
 少し詳しくこの間の経過を見てみよう
 
  8−1 命名の経過
 ・当時の新聞記事    
 ・千葉鉄道管理局長堀口大八氏
 このように「地球展望台」と命名した堀口大八氏とはどのような人物なのか。
 単なる鉄道マンではない。
 戦前から多くの「輸送」「交通」に関する論文や著作
 氏の経歴は?
  8−2 地元銚子市民の関わり
 
  8−3 「ほったらかし展望台」との批判も
 

 9.「日比友愛の碑」の建設
  9−1 建設の経過
パンフレット発行の翌年、昭和33年6月29日には「日比友愛の碑」の完成除幕式が行われており、展
望台とあいまって観光施設としての付加価値にもなったと思われれる。
 
  9−2 展望台との位置の関係
 

10.犬吠スカイタワーの建設
  10−1 『展望台』の隣に建設
  ・新聞記事
 
  10−2 管理運営体制は?
 
 

11.銚子有料道路の完成
 昭和47年(1972年)12月、銚子有料道路開通
 
平成15年(2003年)無料化。千葉県道286号愛宕山公園線に。
 
 

12.犬吠オーシャンランドの開園
  12−1 建設の経過
 昭和48年8月3日開園。開園時の主な施設は、海の生活館、遊びの広場、あつまりの広場、プール、
アーチェリー場、ゴルフ練習場等。その後、スライダープール、競泳プールの新設、スカイタワーの委託
運営等を行った。
 入園者は昭和50年度が最高で20万人を越えたが、その後年々減少し、昭和55年3月31日31日に
事業廃止となった。
 本施設は銚子市に無償貸与され、銚子観光協会が経営を行ってきた。
(観光公社の歩み) 
  12−2 犬吠オーシャンランドの概要
 
  12−3 犬吠スカイタワーの買収

13.犬吠スカイタワーの終焉
  13−1 
  13−2
 


14.地球の丸く見える丘展望館の建設
  14−1 
 
 
 
 



関係年表